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【父母の声】(2006年9月1日発行「後援会たよりNo.17」から)
マルチタスクのできる人(大学院工学研究科 卒業生父)
アメリカでの結婚式(情報工学科 1年母)
改 修 中(電子工学科 2年母)
私が一番 シアワセかも(大学院工学研究科 2年母)
武士道は過去の遺物?(電子工学科 4年父)
「念ずれば通ず…?」(メディア情報文化学科 2年母)
母と子の絆(通信工学科 4年母)


【父母の声】(2006年4月1日発行「後援会たよりNo.16」から)
人の死、そして今(工学部第2部機械工学科 3年母)
気が付けば越されている日本
〜巣立つみんなで巻き返しを、あの頃のエネルギーをもう一度!!〜
(医療福祉工学科 4年母)
初めての台湾旅行(工学部第2部電子工学科 4年父)


【父母の声】(2006年9月1日発行「後援会たよりNo.17」から)

マルチタスクのできる人(大学院工学研究科 卒業生父)

 今年3月に長い間大変お世話になって当大学を卒業し、何とか社会人として働いています。これで親としての役割は終わったのかなと思っておりますが、子供に対する手綱の切れた毎日が、寂しい気がしています。
 そこで過去のことを振り返り、息子が在学中にしていたことで、テレビで野球をかけ、お菓子を食べながら何か難しそうな文書をワープロで打っている。いっぺんにいくつもの仕事ができるのはとても不思議でした。いわゆる「ながら族」です。
 自転車のペタルを漕ぎながら鼻クソを取るというのは私でもできます。体操で右手は三角、左手は四角を描くというのがありましたが、練習し慣れればできるのでしょう。数学の問題を解きながら作文を書くことはとてもできそうにもありません。小学校のころ習字の練習をしながら硬い煎餅をかじっていて、何を間違ったのか、たっぷり墨の付いた筆を思いっきり噛んでしまい、口の回りが真っ黒になり一瞬何が起こったのか分からないということがありました。
 一度にいくつかの仕事をすることは間違いの元かも知れませんが、時間を分けて順番にいくつかの仕事をこなすことは可能です。しかし、仕事を切り替えるとき頭の中を整理していないと、冷奴にソースをかけてしまうかもしれません。いつも頭の中は整理整頓して認知症にならないようにしたいものです。
 若い人たちが奇抜なアイデアを出したり、新しい仕事にすぐに取り掛かったりできるのは常に脳細胞が活発に動いているからです。私たちのような年代では脳はほとんど停止状態にあります。なぜなら「めんどうくさい」「また明日すりゃいいや」「このくらいでいいや」という諦めが早く訪れ頭を使うことが少なくなったからです。
 今まで持っていた道具をどこに置いてきたのか思い出せなく、元に戻ってやっと思い出せる歳ですが、時分割マルチタスクを行うことで脳の腐敗防止になるのではないでしょうか。努力して頭を使いましょう。パスタを茹でながらトマトソースを作ることができるのですからきっと大丈夫だと思います。

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アメリカでの結婚式 (情報工学科 1年母)

 二年前の冬、かつてホストファミリーをしていた我が家に数ヶ月間滞在していた留学生の一人から結婚パーティーの招待状が届きました。
 外国人からの招待を受けたのは初めての事で、趣味は海外旅行の私は迷うことなく当時高校生だった娘と二人でアメリカ・オレゴン州はポートランドへと、文字通り飛んで行きました。
 娘との海外旅行は数回経験していますが、結婚式となると勝手が違います。まずは服装。悩んだ末に娘は学生なのでスーツ、私は日本代表と銘打って色留袖を持参しての気合の入った出発でした。
 事前に連絡し合った通り、空港には結婚式前日でしかも早朝なのにもかかわらず27歳になった元留学生のグレッチェンとお母様が大きく手を振って迎えに来てくれていて、まずは第一回目の感動。その日の夕食にも招かれ、炊飯器まである親日家のワード家を訪ねるとご両親と4人兄弟そしてその家族・近所の方・新郎新婦の友人と名前を聞いてもお互いに覚えきれない状態ながらも、手作りの料理に心温められ、皆で写真を撮る頃にはグレッチェンの4歳になる甥っ子が私の膝に乗ってきてくれ、改めて感激しました。
 そして迎えた結婚式当日、式の前に着物姿で町を歩いていると、ニューヨークあたりとは違って小さな地方都市のせいか、ほぼ全員がギヨッとして振り返り、青年には写真を撮らせて欲しいと言われ、果てには若い女性に呼び止められて「それは何と言う服装?映画でしか見たことがないのでびっくりしているわ!日本の何処で買えるの?」など矢継ぎ早の質問を受け、「やっててよかった英語と着付け」などと自画自賛。
 式は夕方から始まり、記録的な寒波だったのにたくさんの方々がグレッチェンとセルジオを祝うために教会の集会所に集まりました。
 生バンドが演奏する中、やはりワード家手作りの料理を自由に頂き、席なども勿論自由で新郎新婦も高砂席など元より無いので皆と歓談し、日本の披露宴とは何もかも違うけどお金をかけずに真心をたっぷり注いだパーティーには、娘がとても感動し憧れたようでした。
 さらに私にとって嬉しかったのは、私達を含めて日本人が4人出席していましたが、お互いに固まってしまったりせず、また会話も日本人だけであっても英語で話すマナーが守られていたことでした。
 せっかく外国に留学しても英語が話せないまま帰ってくる学生が多い事の原因の一つは、日本人同士でグループになり英語をしゃべらない事実があると、私自身ロンドンの語学学校で勉強していた時に強く感じていただけに、さわやかな気分でアメリカの方々と本当に楽しい時間が持てました。
 留学を渋っていた娘も大学在学中に短期留学したいと考えるようになったのもこのアメリカ旅行のお陰です。もちろんステイ先第一候補はポートランド。寒波の影響で行けなかった動物園や植物園にも行くつもりのようです。
 短期では急速に英語力がアップすることはなくても、地元の人々に溶け込みながらさまざまな経験を積んで、たくさんの友人を作って欲しいと願っています。

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改 修 中 (電子工学科 2年母)

 電車に乗ってすぐかわいい女の子から席をゆずられた。
 オヤ!とうとうきた。ぐっと疲れた格好をして言葉に甘えた。
 そういえば今回の血液検査ではコレステロール値が高い。バリウムから胃・十二指腸潰瘍ありと薬を飲むことになった。骨密度も心配なので腰の輪切りのCTを撮ってもらって結果待ち。健康保険を使って通院するのは心苦しく骨粗鬆症になって寝込んでも周りに迷惑かな?そこで心を改め毎日50分の散歩と日頃から体を動かし、ジェネリックの薬にむかう。ショックを受けている私を勇気付けたのは平成6年産のマイカー。彼女は2年後の車検はもちろんプラグやタイミングベルト、タイヤ、エンジンオイルも細かく点検交換されている。
 リコール対策作業(バッテリー液がもれブレーキが効かなくなる)もあった。今 絶好調。プロの目から当分大丈夫ということだ。ただ問題の運転技術では 4人乗りで山道を登るのは無理なので。2人は歩いてもらいたい。
 50代は体のまがりかど。車も体もいたわらなければネ

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私が一番 シアワセかも(大学院工学研究科 2年母)

 「私が一番 シアワセかも・・・」
 長男が入学して、はや6年、今年で大学院の修士課程を終えることになります。勉強熱心な子だったので、母親として何の心配もなく過ごして来ました。教職をとっていましたので夏休みなどがつぶされてしまうのは、かわいそうな事でしたが自分が選んだ大学で、6年間も過ごせることは幸せだと思います。ゼミの教授を大変尊敬し、信頼しており「人間として一生お付き合いして行きたい教授だよ」とハッキリ言い切れる長男を見て、その教授と出会えた事、二年間を研究室で過ごせた事が、本人にとって人生の宝物のひとつであると思います。良い友達と、素晴らしい先生方に囲まれて、学生時代でないと経験出来ないさまざまな事を、残り少ない学生生活で多いに楽しんで欲しいと思っております。
 私が電通大のファンである理由のひとつに、大学と後援会が密な関係であることがあげられます。保護者の意見を後援会を通して大学側も考慮して下さる。本校学生に対して、非常に気くばりのある大学であるということを、この6年間で痛感致しております。後援会の方々の日々の努力に大変感謝しております。
 又、嬉しいことに、今年、長女が本人の希望通り入学致しました。大学のファンである私にとって、これは大変幸せなことです。早々に自冶会吹奏楽団に入団させていただき、先輩のみなさまに暖かく指導していただいて、充実した毎日を送っております。
 イキイキと朝、通学する娘を見て、好きな大学に行けるということは、こんなに毎日が輝いて過ごせるのだとつくづく思い、娘と息子の後ろ姿を見送れる私が、もしかすると一番シアワセかも・・・

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武士道は過去の遺物?(電子工学科 4年父)

 このごろ、日本の社会はどこへ行くのか、日本の伝統や独自性、日本のよさはどうなるのか、心配です。
 その不安な気持ちに対して、ナショナリズムを煽る風潮もあれば、神国や武士道などを採りあげて、学問的に再検証しようとの努力も見られます。
 ことばとしては誰もが知っている武士道は、ニッポン!ニッポン!と煽るようなスポーツ報道などにおいて、サムライとか大和魂とかと併せて、何か攻撃的で勝利に固執するような、勝つためには選手生命を犠牲にするというような意味合いで使用されます。
 しかし、武士道とはそういうものとして理解すべきなのでしょうか。
 新渡戸稲造が欧米に日本精神を解説しようとして英文で書いたのが「Bushido」(1899年)であり、「武士道精神を体系的かつ総括的に述べた唯一の思想書」(岬龍一郎)だと言われます。
新渡戸稲造は「勇猛果敢なフェアプレーの精神こそ文武の徳の根本」と指摘しています。サッカーW杯では、日本選手はフェアプレーに徹していたようですが、もっと「汚い」プレーをしないと勝てない、やられたらやり返せ、などという論者もいました。武士道精神に反する勝利至上主義でしかありません。
 日本人が「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」とか、判官びいきの精神を持ち、卑怯や臆病を嫌う心情などは確かに、武士道精神が社会的に残っていることを意味しているようです。
 とはいえ、弱い者をいたわるのが武士道ですが、大勢で弱い者をよってたかってなぶり殺しにするような事件が絶えません。
 自己責任とか称して、弱者をさらに痛めつけ、強者をさらに優遇するような格差主義も武士道に反します。
 部下に責任をおしつけて罪を逃れる連中が後を絶ちません。
 武士道はもともと武家社会の支配者たちの行動規範ですから、そのまま現代に適用してはなりませんが、今日的な意味で武士道をとらえなおしてみたとき、人間の行動規範として、学ぶべき点が多いようです。

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「念ずれば通ず…?」(メディア情報文化学科 2年母)

 この夏、11年ぶりに息子と再会した。とはいえ実の子供ではない。
 11年前に私自身がホームステイした日系MEXICO人の家の末子の息子さんのことである。
 当時11歳だった小学生は、今や大学でロボット工学を学ぶ22歳の青年に成長していた。夏休みを利用して、ひと月のあいだ私の友人達の家でもホームステイをするのだ。
 日本語検定の2級を受験するつもりなので、さほど日本語には不自由はないが、母国語のスペイン語以外なら英語のほうが得意らしい。
 しかし、我が家は全員苦手。分からない日本語は英語で話してくれるのだが、聞いたこともないような単語ばかり。そこで登場したのが、電子辞書である。
 ところが、今までに何度か床に落としてしまった電子辞書は、時々不具合を起こす。新しいものは、既に買ってあるが、使い慣れた電子辞書のほうが操作しやすく、短時間で調べられるから捨てられずにいた。
 私たちを驚かせたのは、その壊れかけの電子辞書を修理すると言い、裏蓋を開けたこと。初めて目にするプリント基板には、家族一同が興味津々。
 「これがパソコンのプロセッサーみたいなもの。」「ここはハードディスクと同じ。」「あれ、水をこぼした?ここが白くなっているよ。」指で示し教えてくれるが、チンプンカンプンでどう反応してよいのやら。
 「特別な道具がないとこれ以上は調べられないからね。」と、蓋を閉めて動作確認をしてくれたところ、見事に画面が動き出した。娘たちは、驚きと同時にもちろん感謝の気持ちも伝えた。
 大阪のどこに行きたいか尋ねても、特に思い当たらないらしく。愛知県では、TOYOTAを見学してきたらしい。
 ならばと、NHK,大阪城に続いてOBPのツインタワーにあるPanasonic centerに連れて行った。翌日には、2006年ロボコンカップで優勝した「チーム大阪」のサッカーロボットも見に出かけた。我が娘だと、どこかに行こうと誘っても面倒くさそうな返事ばかりで、一緒に出かける機会がなくなっていたので、久しぶりの親同伴である。興味のある物事には、想定外の時間をかけ、じっくりと見学し学習している。
 メキシコの大学生活は、アルバイトどころか昼食を食べる時間がないくらい勉強に忙しいらしい。外国の大学は日本と違うと聞いていたが、卒業するのは相当難しいようだ。しかも、スペイン語以外に英語を話せるのは当たり前なので、三カ国語以上話せないと就職も心配と話す。
 エレベーターの扉が開けば、先に乗せてくれる。重いドアを開けて待っていてくれる。買い物をすれば、荷物を全て運んでくれる。紳士的な態度は11年前と変わっていない。
 そんな彼の大阪の滞在を楽しませようと、自宅でたこ焼きを作った。材料を鉄板の上で何度もグルリと回して形よく仕上げていくことが楽しいらしく、最初から最後までずっと作り役をかってでてくれた。
 周りの人からは、異国の他人と一緒に生活をするのは大変でしょ?と聞かれるが、10年以上も前からホストファミリィーをしていた私達には特別に緊張はない。
 しかし家族だけで小声で話すことは絶対に禁止。他人に余計な神経を使わせないための努力はしたほうが良い。子供が反抗期のときは、子供の我儘な行動のために、自分の存在が迷惑なのではないかと気を遣わせてしまうこともあったが、後で説明をすると分かってもらえる。
 ある程度の忙しさは増えるし、滞在期間中は、個人または国によって、食べ物の制限を考慮するのも仕方がない。
 しかし、得ることが多いのも事実。何気ない会話でもゆっくりとした口調で丁寧に表現することを自然に心掛けるようになる。相手に分かりやすい言葉を頭の中で探しながら話していると、たとえ日常会話でも脳のトレーニングにはなる。長年学習したはずなのに成果のない私にとって、英語圏の人の場合は、特にそうだった。内モンゴル省の高校生の時は、紙に漢字(日本の漢字は、複雑で覚えにくいと言われた)を書いての伝達が多かった。タイ人の時はイラストも使った。どの国の人達も、子供たちと一緒に遊んでくれるので、家事もすすめやすかった。
 特に今回は、彼の姉妹がステイしたことがあり、娘たちと年齢が近いことも重なって、毎日笑いが絶えなかった。ひとつひとつのハプニングが、自然に大笑いとなり、家族として彼を巻き込んでいく。
 彼をくつろがせたのは、家族だけではなく、パソコンもそうだ。
 Hotmailで、友人たちとチャットやメールの交換をし、デジカメのファイルをパソコンで処理し、彼のUSBメモリーにコピーして持ち帰る。母親からは、メールが、パソコンだけでなく私の携帯電話にも届くので、彼の母親も少しは安心だろうと思いやる。
 11年の歳月は、小学生を大人にしただけではなく、パソコンの普及やインターネットが世界そのものを身近にし、情報を即時に伝達してくれることで、安心感を与えてくれるという事実はありがたい。
 専門知識を持つ人材を育てる電通大学は、今後もより一層、需要が増していくだろうと思う。
 そして、発想の転換や専門的技術の向上が求められる学生には、今まで以上に要望が多くなるはず。是非ともプレッシャーを撥ね退け、頑張って欲しいものである。
 そう考えながら、パソコンに向かって一心不乱に没頭している娘の後姿に声なき念を送っている。「全ての課題をこなしている真面目なあなたのことだから、少しくらいの息抜きは、必要だと分かっているのよ。あなたの体が心配なだけじゃないけれど、お願い。深夜遅くまでゲームに熱中するのだけは、やめて欲しいわ!」(綾小路きみまろさん風に)と。

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母と子の絆(通信工学科 4年母)

 私は、6月30日大好きな高橋真梨子さんのコンサート(京都)で買ったCDを聴き乍らペンを走らせている。単身赴任が長い主人とは洋画の趣味しか一致しない。ところが息子二人とは私の "血" が半分はいってる!息子の電通大入学式は初めて主人が行った。二人の背広姿を後ろから歩く私は、主人には目に向かず長男の後ろ姿にホレボレしたものだ。又、それを主人に言わなくてもいいのに・・・主人はムッとした顔をした。"本音を言ってなぜ悪い" と心でつぶやきながらの4年前の入学式!
 私は働いていたので、子供の小学校からずーと役員を受け、参観日も欠かしたことはなかった。子供はいずれ離れていく、母もいっしょに成長し、楽しませて貰いたかったからだ。案の上、長男はお金が必要な時しかメールの返事をよこさない。人間は皆、勝手だが・・・
 私の旅行を反対した主人に対し、「おかんもいつ、コロッといくかもわからへんねんから行かしてやれー」と主人に一喝してくれたのは長男であり、主人は反論できなかった。
 二人の息子は、救急車で運んだことも、迷子になりパトカーに乗せられたことも、喝揚げ、恐喝傷害etc色々な目にあい、その度、母 (私) が対処してきた姿を見て育ってくれた。"母の味方は当然であろう" と思い乍らも涙がにじむ。親馬鹿である。私から請求した母の日のプレゼントは今だ届かないが・・・
 "極楽トンボ"の主人をいれると子供が3人いるような我家・・・携帯代は高くつくが、家族の絆は保たれてるかなー?と主人と私は二人の息子に適当に操られているのだが・・・

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【父母の声】(2006年4月1日発行「後援会たよりNo.16」から)

人の死、そして今(工学部第2部機械工学科 3年母)

 先日、義父が家族の看病の甲斐もなく亡くなりました。
 今まで、色々な病気で何度か入院し、その度に看病し、無事退院が出来、笑顔を見せてくれた義父にはもう会えません。
 わがままな患者で、正直しんどかったのですが、そのわがままも言ってくれません。
 亡くなるというのは、色々な意味で淋しくなるものです。
 幸せな事に、身内で経験したのは、今までになく、今回が初めての事で、とまどう事が多い毎日を今、過ごしています。
 人が息を引き取る所に初めて立会いました。息子2人にも、初めての経験です。
 大きな声で何度も「じいちゃん」と呼んでくれました。何故か涙を流した「じいちゃん」の顔を、そっとタオルでふいてもくれました。
 息を引き取った時には、私達に背中を向けて、そしてその背中は、大きくゆれていました。
 昨今、命を粗末にする事件が多い中、息子たちには「何か」を感じとってくれたと確信する大きな大切な出来事でした。
 深夜にもかかわらず、家族全員に見守れながら息を引き取った義父は幸せだったと思います。悲しい事ではありますが、命の尊さを改めて感じ取る事が出来た私達にも良い時間だったと思うのは不謹慎でしょうか。

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気が付けば越されている日本
〜巣立つみんなで巻き返しを、あの頃のエネルギーをもう一度!!〜
(医療福祉工学科 4年母)

 21世紀は中国・インドの時代だと言われている。2004年9月、中国の地で初めて国際F1グランプリの第16戦目が上海F1 レース場で行われた。
 モータースポーツ育成の為、総工費700億円・第1期工事360億円かけ建設された上海F1 レース場は1周 5.45km のコースで20万人の観客が収容出来る世界有数の国際F1レース場である。世界の自動車産業にとって、中国GPは念願だった。
 また、上海市は2010年の世界万博を目処に、都市構造の抜本的な見直しなどの環境整備に着々と手を打っている。「今の中国の変化は、2〜3年が過去の30年分に相当する」と言われている。市場経済が進む中国社会の変容を中国の地を訪れるたびに肌で感じる。
 中国も2002年あたりからモータリゼーションが本格化してきて、2010年までには日本を上回る市場と生産国になると言われている。誰もが知っているように日本は1963年 (昭和38年) マイカー元年、1968年(昭和43年)には商用車と乗用車の生産比率が1:1となり、一直線に1,300万台まで生産を伸ばした。今は少し減って1,000万台強。中国は2001年頃から急速に生産量が伸びている。この現象は日本マイカー元年後の伸びに相当していると言われる。中国のすごいところは広い国土と車を運転する人間が日本の10倍いることである。
 2010年の車生産量はアメリカ・中国・日本の順になると言われ、その10年後には中国はアメリカを抜くのではないかとまで言われている。
 昨年(2005年)秋に上海を訪れた時、レクサスの販売店が二店舗営業していると聞いて行ってみた。日本では600万〜700万円代の車が1,300万円代で販売されている。(関税の関係で日本では外車が高価であるのと同じである。)それでも販売店では月間、80〜90台売れている上、客はキャッシュで支払っていくという。改革開放政策後、成功した人達であろうか・・・?「新富裕層」が急激に増えている。
 また、2008年の五輪を控え、激しい都市開発の波にさらされている北京の姿も象徴的である。
 現在の中国の経済水準は、高度経済成長が始まった1960年代前半の日本と一致している。「あの頃日本人が持っていたエネルギーが今の中国にある。」庶民は急激な発展に必死で足並みを合わせている。
 中国は2003年に有人宇宙船「神舟5号」を打上げ、続いて2005年に「神舟6号」を打ち上げて、いずれも成功していることや、原子力潜水艦や原爆・水爆を持つ事が出来るほどの経済力がある。
 また、上海磁浮列車(リニアモーターカー)に至っては、最高速度431km/h。車窓に目をやると高速道路を走る車は止まって見える。愛知万博で賑わったリニアモーターカーは御粗末であった。
 幸運にも娘は昨年5月末に製造業に内々定をもらった。製造業にとって、地球温暖化や大気汚染防止、低燃費車、低排出ガス車、ハイブリットエンジン、福祉車輌、リサイクル事業など、課題はたくさんある。高度経済成長の真っただ中で、社会人となり活躍した「団塊の世代」がまもなく定年を向かえる。その彼らに代わって、巣立つみんなで技術開発・研究に向き合って、大学で培ってきた様々なノウハウを最大限に活かし、大きな可能性をどこまでも追求し続け、諸外国に負けない「ものづくり」に取り組んでほしいと願っている。

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初めての台湾旅行(工学部第2部電子工学科 4年父)

 今年正月5日に旅行社主催の台湾旅行に行ってきた。
 1978年 (昭和53、成田国際空港開港) に日中平和友好条約が結ばれて以来、台湾とは断行して、日中間は少しずつでも平和と友情を暖めてきたと言えるのか疑問になってきたこのごろである。
1994年には、芸術家仲間に誘われて、中国大陸へ陶芸研究の目的でスケッチと交流を兼ねて行ったことがある。
その間に台湾は大きく成長したみたいである。それが台湾を見直す機会を与えてくれた。 「充実の旅、台湾4日間」。今回は台湾一周で忙しかったが、観光と食事は充実していたかもしれない。何より現地ガイドのXさんのユウモアある熱心な日本語の話も面白かった。 日本と台湾はもっと友好的な付き合いをする必要も理解した。
 道中一度だけ、私は個人オプションタイムをXさんに要求した。二日目、高雄空港からバスで市内に人って最初の観光地、龍成宮という市民が尊拝するすばらしく豪華な寺を観てから途中下車させてもらった。美術館路を西へ行けば良かったから不安は無かった。だが入り口は見つけにくく、道路に面して無く、小さな林の小道をたどって丸窓の廊下を抜けて左の階段を上がった所に、何と広い広場があり美術館が左右に広がっていた。
訪問者を驚かす趣向か、玄関左右の壁面全体には人物を躍動的に半抽象的に配した白い浮き彫りがすばらしくそびえていた。
中に入ると広いロビーがあり、受付でカメラとバックを交換に預かり証をもらい右折すると101展覧室から観て行く。そのうちに表の大きな浮き彫りは今展示されている楊英風の作だと理解できた。展示してある品はどれも感心するものばかり。デッサン、水彩画、墨画版画、ブロンズ像、コンピューターグラフィック、白黒写真、晩年の金属オブジェなど死ぬ直前まで多彩で精力的な人物であった。解説書を購入して、私なりに読んでみる。日本の植民地時代の中で教育を受け、東京芸大の建築科に入学。戦後はめきめきと認められ、造形能力や構成企画力に優れた人だった。 1926年生まれ〜1997年、72歳で他界。日本ではこんな人の事など、爪の垢ほども知られていない。
 ここの展示物のモダンさ、伝統との調和と尊重。三階には書が展示。加えてこの館の周りの人工的自然風景の美しさ。今年は例年になく寒いといわれる台湾。本当は暖かさを求めて来たのにと思いながらも夕暮れの広く入り込んだ池の周りを時間を気にしながらもゆっくり歩いてみた。さすが熱帯の花樹が多種植えられており、池の向こうに情景で広がる山が見え、しばし都会の中にいることを忘れた。
 これからは台湾を大事にしよう。中共ペースで彼らの言い分だけを聞くのはやめよう。台湾人民はおとなしいけれど、彼らの声を聞こうと私は思った。ちなみにXさんは漢族だけど中国を信用できないし、過去を許せないといっていた。日本が引き上げた後、国民党蒋介石の軍隊は解放軍のような顔をしながら、台湾の人々を支配し、その屈辱の下に甘んじなければならなかった。16歳の時、彼の父親も1947年の2.25事件に巻き込まれ、目の前で殺され忘れることはできないのだそうだ。

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